【ITニュース解説】Weird CPU architectures, the MOV only CPU (2020)
2025年09月09日に「Hacker News」が公開したITニュース「Weird CPU architectures, the MOV only CPU (2020)」について初心者にもわかりやすく解説しています。
ITニュース概要
珍しいCPUアーキテクチャの一つとして、MOV(データ移動)命令のみで動作するCPUを紹介。一見単純だが、命令実行や分岐など全ての処理をMOV命令の組み合わせで実現する設計思想や、そのユニークな動作原理と可能性を解説している。
ITニュース解説
コンピュータの最も重要な部品の一つであるCPUは、様々な命令を実行してプログラムを動かしている。これらの命令は、CPUが理解できる特定の言語のようなもので、命令セットアーキテクチャ(ISA)と呼ばれる。一般的なCPUの命令セットには、数値の加算や減算、データの比較、メモリからの読み書き、プログラムの実行順序を変えるジャンプなど、多種多様な命令が含まれている。しかし、「MOV命令のみで動作するCPU」という非常に珍しいコンセプトが存在する。これは、文字通りデータ移動を意味するMOV命令だけで、あらゆる種類の計算とプログラム実行を実現しようとする試みである。
まず、MOV命令が何であるかを理解することが重要だ。MOVは「Move」(移動)の略で、CPUがレジスタ(CPU内部の高速な記憶領域)から別のレジスタへ、あるいはレジスタとメモリの間でデータをコピーする最も基本的な命令である。例えば、「MOV A, B」という命令は、BからAへデータをコピーするという意味を持つ。一見すると、この命令は単にデータを場所から場所へ移すだけで、計算や複雑な処理を行う能力はないように思える。しかし、このMOV命令が持つ潜在能力は、コンピュータ科学の深い理論に根ざしている。
コンピュータ科学には「チューリング完全」という概念がある。これは、あるシステムが、理論上どのような計算でも実行できる能力を持っていることを意味する。驚くべきことに、MOV命令だけでもチューリング完全性を実現できることが証明されている。これは、特定の条件下でMOV命令を巧みに組み合わせることで、加算、減算、条件分岐、ループといった、あらゆるプログラミングの基本要素をシミュレートできるという意味である。
では、具体的にMOV命令だけでどのように計算を実現するのだろうか。この概念を具体化した「Movfuscator」というプロジェクトがある。これは、C言語で書かれたプログラムを、MOV命令だけからなる機械語に変換するコンパイラである。その核心は、MOV命令が単なるデータコピー以上の効果を持つ特定のCPUの挙動を利用する点にある。特にx86アーキテクチャのCPUには、MOV命令がデータ移動だけでなく、特定のレジスタ(例えばセグメントレジスタ)に書き込まれた際に、その値に基づいて間接的に演算が実行される、あるいはメモリのアドレス解決の挙動が変わるといった特性がある。
例えば、単純な加算や減算をMOV命令だけで行うことは直接的にはできない。しかし、Movfuscatorはメモリとレジスタ、特にセグメントレジスタやスタックポインタといった特殊なレジスタへのMOV命令を巧妙に利用する。メモリ上のある領域に数値を配置し、そのアドレスをセグメントレジスタにMOVすることで、まるでメモリ自体を計算機のように扱ったり、特定のメモリ位置へのMOVが、その間接的な効果として演算結果を生成するように見せかける。これは、CPUがアドレスを計算する際に特定のレジスタ値を加算する仕組みや、セグメントレジスタがメモリのアドレス空間を調整する特性を利用して、データ移動が間接的に算術演算の結果として解釈されるように仕向ける手法である。
さらに、プログラムの実行フローを制御する条件分岐(if文など)やループ(for文、while文など)もMOV命令だけでシミュレートされる。これは通常、JUMP(ジャンプ)命令によって実現されるが、MOV命令しかない状況ではどうするのか。一つの方法は、メモリ上のプログラムコード自体をデータとして扱い、MOV命令でその内容を書き換える「自己書き換えコード」というテクニックを使うことである。例えば、条件が真の場合に実行すべきコードと偽の場合に実行すべきコードがメモリ上に用意されており、条件判定の結果に基づいて、次の実行アドレスを指すメモリ上のデータをMOV命令で書き換えることで、間接的にジャンプをシミュレートする。また、スタックポインタ(次に実行すべき命令のアドレスを保持するレジスタ)をMOV命令で操作し、間接的に命令ポインタ(現在実行中の命令のアドレスを指すレジスタ)の値を変更するような高度なテクニックも用いられる。つまり、MOV命令が間接的に命令ポインタを操作するように見せかけるのである。
このように、Movfuscatorは、MOV命令が持つ間接的な効果や、CPUの非常に低レベルな挙動を最大限に活用し、あたかもMOV命令が演算や制御命令であるかのように振る舞わせる。これは、命令セットを極限までシンプルにした状態で、いかに複雑な処理を実現するかという理論的な探求の産物である。
しかし、このようなMOV命令のみのCPUアーキテクチャは、実用的な側面で見ると大きな課題を抱えている。第一に、性能が極めて低い。一つの簡単な計算を実現するためにも、膨大な数のMOV命令を連鎖させる必要があり、その結果、プログラムの実行速度は著しく低下する。第二に、生成されるコードの難読化が非常に進むため、デバッグや解析が極めて困難になる。通常の命令セットを持つプログラムであれば、ある程度は人間が理解できるが、MOV命令の羅列から元のプログラムの意図を読み解くのは至難の業だ。
この「MOV命令のみのCPU」というアイデアは、コンピュータの根源的な仕組みを理解する上で非常に興味深い。普段我々が使う複雑なコンピュータが、実はたった一つのシンプルな操作「データの移動」の組み合わせだけでも、原理的にはあらゆる計算ができるという事実を示している。これは、コンピュータサイエンスの奥深さと、プログラミングやアーキテクチャ設計における創造性を再認識させてくれる事例である。実用性よりも、理論的な可能性を探求し、コンピュータの動作原理を極限まで突き詰める研究の一環と言えるだろう。